第7回(10月22日 アップロード)


2回続けて日本の宗教について書いてきました。
改めて、「死」について考えてみたいと思います。


 上智大学教授のアルフォンス・デーケン先生が編集された、「死の準備教育」という叢書(メヂカルフレンド社)があります。その第2巻の「死を看取る」の中で、東北学院大学教授の大山正博先生は次のように述べておられます。

 「死の過程でパーソナリティ要因を重視するならば、死の過程はまったく個別的であり、モデルや類型としてとらえることは、困難になる。
 死は、本来、そのような個別的側面を持つものであることは、否定できない。 しかし、この観点をあまりに極端に強調するならば、死は個人的であり、死の問題自体が内的で他者には関与することが不可能であり、成り行きに任せる以外にないという考えに行き着いてしまう。
 そのような考え方が長い間、我々を支配してきた。 しかし、そのように死の過程にある人々を心理的に遠ざけてしまったことに対する反省から、死の過程を理解し直そうとする新しい動向がうまれてきた。」

 要約すれば「死は個人的なものだと言ってしまえば、それで終わりになってしまって他人が係わることはできなくなってしまう。 そのような考え方に慣らされてきたために、死を遠ざける結果を招いた」ということですね。

 かっての日本では、三世代同居はあたりまえのことでした。 おじいちゃんやおばあちゃんの臨終の場に、子供や孫が立ち会うのは当然のことだったのです。
 従って、「死」は、家族という社会の単位で認識されてきました。

 けれども核家族化が進み、自宅で死を迎えるよりも病院という隔離された場で死を迎える人が多くなり、「死」に接する機会が少なくなって、「死」そのものが隔離されたものになってしまったのです。
 死は、誰にでも必ず訪れるものであり、誰も避けることのできないものですが、人々は死に対する漠然とした怖れは感じていても、死を具体的なものとして見ることができなくなっています。

 作家の曾野綾子さんは、次のように述べておられます。(生と死を考える:春秋社)

 「死を考えることが、最近の流行というか、たしなみのように思われているということを聞くと、私は実に不思議な気がする。
 私は小さい時から、カトリックの学校に育ったおかげで、毎日自分の死ぬ日のために祈ることを教わった。つまり「いつの日かよき死を与えて下さいますように」と祈る癖がついたのである。
 四十台の終わりになると、私はいよいよ死を考えない日はなくなった。少しも暗い感じではない。それによって、私が従容と死ぬとも思えない。ただ生と死は抱き合わせのものだから、二つは必ず対になって私の生活に関与して来るのである。(中略)
 私は何でも、隠して置かずに明るみに出すのが好きだ。 隠しておくということは、いかなる意味でも解決にはならない。 人間の悲しみも醜さも別離も、共に何か必要な面があったからこそ、存在したのである。
 幸福も人間をふくよかにする。 同時に死も人をみごとなものにする。 病気は辛くもちろん避けたいものだが、苦しみを体験することによって、精神の成長を遂げた人がどれだけ多いかをみる時、死もまた同じだろう。 いや、もっと効果的だろうと期待せざるを得ない。」

 1982年にデーケン先生が「生と死を考えるセミナー」をつくられてから、各地に「生と死を考える会」が結成されています。 それぞれに特徴があるのでしょうが、どの会も真剣に死を、そして生きることを考えているのだと思います。
 曾野綾子さんが言われるように、「死」は決して特別なものではありませんし、怖くないと言えば嘘になるかもしれませんが、恐ろしいものでもないように感じています。

 死ぬまでは生きているのですから、よりよい「生」を過ごせるように努めていれば、死ぬときになって(精神的にも)苦しむことは、少なくてすむのではないでしょうか。
 信仰を持っておられる方は、そうでない私たちよりは「死」について考える機会も多いのではないかと思います。
 安らかな死を願うのは当たり前のことですし、私もそうあって欲しいと思っています。

 ホスピスとは、その人らしい「生」を全うすることをサポートするための(場所ではなく)システムです。ホスピスでは、「生」を全うするために、その人の(肉体的、精神的)苦痛を和らげることに全力を傾けます。
 決して死ぬための場所ではありません。
 患者さんや家族の方に、「ここに来られてよかった」と思ってもらえることが私たちの喜びですし、一人でも多くの人にホスピスを知ってもらえることが、私の願いでもあります。


 このところ、ややこしい話が続いてしまいました。特に今回は肩に力が入りすぎていたようで、読みにくかったのではないでしょうか。 反省 m(__)m。

 次回は、肩の凝らない話を…と、考えています。